拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです

拝啓ご主人様 捨てられたのはあなたです

last updateLast Updated : 2025-10-23
By:  雫石しまUpdated just now
Language: Japanese
goodnovel16goodnovel
Not enough ratings
1Chapters
16views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

「マンションは解約した、今月中に出て行ってくれ」たったその一言だけでテーブルの上に離婚届が広げられた。これは楠木冴子の復讐の物語。

View More

Chapter 1

第一話 不意打ちの離婚届

「一ノ瀬さん、本当に……中絶するご意思で間違いありませんか?」

一ノ瀬千歳(いちのせ ちとせ)は手の中の検査報告書を強く握りしめたまま、こくりと頷いた。

「はい。間違いありません」

医師は惜しそうにため息をついたが、強く止めることはしなかった。

「分かりました。中絶の最適時期は妊娠から35日〜55日です。お身体の状態を見て、10日後に予約を入れておきました」

「ありがとうございます」

千歳は病院の長い廊下に腰掛け、無意識にお腹をそっと撫でながら、スマホで10日後の帰省チケットを予約する。

そのとき、近くのテレビでは長宏グループの新商品発表会が生中継されていた。

製品の品質だけでなく、社長である一ノ瀬智也(いちのせ ともや)の私生活も世間の注目の的だ。

顔よし、頭脳明晰、資産も豊富。

そして、「愛妻家」として知られる男。

初代音声AIの名前は「チイちゃん」――千歳の名前をもじったもの。

そして、今回発表された新作スマホの名は「トシネ」

智也の「妻への愛」は、まさに世界中に見せびらかすようなものだった。

その影響もあって、新製品は女性層に大ウケ。

取材中、ある女性が笑顔でインタビューに応えていた。

「正直、新しいスマホの機能なんて全然分からないんです。でも……旦那にこれ持たせたら、智也さんみたいに妻を大事にしてくれるかも、って期待しちゃいますよね」

この発言を聞いた記者が、本人に伝える。

「一ノ瀬社長、皆さんご存じの『妻バカ』ですが――もし将来、奥さまとの間にお子さんができたら、『子バカ』にもなるんでしょうか?」

カメラが寄る。

智也は一瞬、真面目な顔つきで考え込み――やがて、ふっと口元を緩めた。

「その日が来るのが楽しみですね。ただ、すべては彼女の意思を最優先にしたいと思ってます。それに、『子どもバカ』より、『妻バカ』って肩書きのままのほうが、俺には合ってる気がするんです」

会場は和やかな笑い声に包まれる。

……

千歳のスマホが震えた。

表示されたのは、親友の坂野比奈子(さかの ひなこ)からの連続メッセージだった。

【ちょっとあんた!智也止めてよ!】

【無理ならもう、あんたらの赤ちゃん作って!今日うちの子、撫でられすぎてハゲそうなんだけど!!】

【正直さ、千歳が羨ましいよ。こんなにいい旦那、前世でどんだけ徳積んだの!?】

メッセージを見て、千歳は自嘲気味に笑った。

たしかに、彼女は恵まれてる。

両親は昔からずっと仲がよくて、何十年経ってもラブラブ。

その姿を見て育ったから、逆に千歳の恋愛は険しかった。

本物の愛を知ってしまったせいで、理想が高すぎたのだ。

もうすぐ二十六歳なのに、いまだ彼氏ナシ。

――でも、智也と出会って、すべてが変わった。

まるで「千歳を全力で愛する」ってプログラムが最初から仕込まれてるみたいに、

日常の小さなことから、人生の大きな決断まで、すべてが千歳優先。

智也はメモまでつけていた。

魚は苦手、ネギもショウガもダメ、チェリーが好き、寝起きは機嫌悪め――

それを知った彼の友人が驚いて、こう聞いた。

「お前、そんなに気を遣って疲れないの?」

智也は笑って、ただ一言。

「かわいいって思わない?」

――その一言で、誰も何も言えなくなった。

千歳は慎重派で、なかなか心を開けなかった。

けれど、旅行中に土砂崩れに巻き込まれたあの日、状況は一変する。

山から転がり落ちてきた岩が車を直撃。

智也は迷わず千歳をかばい、意識不明の重体でICUへ。

命の危険すらあったというのに――それでも彼は、千歳を守った。

あの瞬間、千歳の心は動いた。

――これが、愛じゃなければ、何なんだろう。

結婚式の日、智也は子供のように泣いていた。

震える手で指輪をはめ、誓いを立てた。

「一ノ瀬智也は、安原千歳を一生愛し、誠実であり続けます。もし裏切ったら――死んでも構わない」

千歳の声は、静かだけど決意に満ちていた。

「そんな日が来なきゃいいって思ってるよ、智也。私、好きになったらとことんで、裏切られたらもう、絶対に戻らないから」

智也は千歳を愛していた。

だから、千歳だって彼に夢中だった。

でも、その愛は、現実に打ち砕かれた。

半月前。

千歳は、智也が別の女とホテルに出入りしていたことを知った。

記録によると、すでに半年以上の関係。週に二度は会っていた。

――あの誓いは、まるで顔面に叩きつけられた嘘のよう。

千歳は平らなお腹に手を当て、無言で離婚届にサインをした。

それを封筒に入れ、しっかりと封をした。

――一度裏切られたら、二度と戻らない。

そう決めていた。

その約三十分後。

発表会の会場から息を切らして戻ってきた智也は、汗まみれで千歳を抱きしめた。

「ねえ、佐藤さんが言ってたんだけど……君、妊娠したって本当?」

千歳は胸の奥が軋むのを抑えながら、静かに頷いた。

「うん、そうよ」

――でも、すぐにこの子は消える。もう、二度と戻らない。

その言葉は、心の中だけに留めた。

智也はそんなことなど知る由もなかった。

ただ、ひたすら喜びに満ちていた。

我に返ると、すぐにスマホを取り出し、秘書に電話をかけた。

「今月、社員全員のボーナス、倍にしておいて!」

そのあとも、友人たちに次々と報告。

喜びを共有しようと躍起になって、返ってきたのは羨望と祝福の嵐だった。

千歳は笑みを浮かべながら、先ほど封をした封筒を差し出した。

「ねえ、もうひとつプレゼントがあるの」

智也が封を開けようとするのを、千歳が止めた。

「十日後に開けて。今じゃないの」

「了解、すぐメモする」

智也はスマホに予定を追加し、千歳の唇に軽くキスを落とした。

「俺って、世界一幸せな男だよなあ……」

千歳は、黙って微笑んだだけだった。
Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

Comments

No Comments
1 Chapters
第一話 不意打ちの離婚届
テーブルに置かれた一枚の紙は、私に重い現実を突きつけた。「このマンションは売却した。今月中に出て行ってくれ」私は彼の言葉が理解できず、ダイニングテーブルの下で握った手が震えた。指先が冷たく、爪が掌に食い込む痛みさえ感じない。私は何か彼の機嫌を損なうことをしたのだろうか? 朝食の味噌汁が薄すぎたとか、洗濯物の畳み方が雑だったとか、そんな些細なことで三年を終わらせるはずがない。離婚届には楠木健吾のサインが力強く記入され、血のように赤い印鑑が捺されていた。朱の色が妙に鮮やかで、紙の白さを汚しているように見えた。「どういうこと? 訳がわからないわ」顔を上げると氷のように冷ややかな目が私を見下ろしていた。いつもは優しく細められるその瞳が、今は鋭い刃となって私の胸を抉る。昨日まで同じテーブルで朝を迎え、夜は肩を寄せ合って眠った男とは思えない。「冴子、聞こえなかったのか? 今月中に出て行けと言っているんだ」声は低く、感情の起伏を欠いていた。まるで天気予報でも告げるような平板さだ。昨日までの平穏な日常が足元から崩れてゆくのを感じた。キッチンのカウンターに並ぶ二人分のマグカップ、ソファに残る彼の匂い、玄関に揃えて置いた靴、すべてが急に他人事のように遠のいていく。理由もわからないまま三年間の結婚生活に終止符を打てというのか。私は目の前に置かれたボールペンと印鑑、ご丁寧に用意された朱肉を凝視した。朱肉の蓋が半開きで、小さな鏡のように光を反射している。「理由を言って頂戴……納得出来ない限り、私はこれにサインしない」「……」沈黙が部屋を満たした。時計の秒針がカチカチと音を立てるたび、私の心臓が締めつけられる。健吾は窓の外を見据えたまま、唇を結んでいる。冷たい空気とは裏腹に、優しい陽光がリビングに降り注いだ。三年前、ここでプロポーズされた時も同じ光だった。あの時は笑顔で「ずっと一緒にいよう」と言ったのに。私は震える指で離婚届を手に取った。紙は意外に重く、指先に冷たさが染み込む。欄外に走り書きされた「財産分与なし」の文字が目に入り、息が詰まった。三年間、専業主婦として尽くしてきた家事、健吾の帰りを待つ孤独な夜、すべてが無意味だったのか。「ねえ、健吾」声が掠れた。「せめて……最後に、ちゃんと話してくれない?」彼はゆっくりと振り返った。だが、その瞳にはもう、私の居場所
last updateLast Updated : 2025-10-23
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status